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苦しみと、その癒やし──手塚治虫『ブッダ』について

雑記

手塚治虫ブッダ』をパラパラと読み返した。作品内では、苦行をめぐった議論が何度か描かれている。
行者・デーパは、身体を苦しめることによって欲が離れるからと苦行の意義を語る。ブッダは、自身もはじめデーパらとともに苦行に取り組むが、のち捨て去る。ブッダは苦楽への偏りそれ自体を批判し、中道を擁護するからだ。

新装版 ブッダ 全14巻

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ぼく自身は苦行とは程遠い人間だが、デーパの語り口(の問題)には、共感してしまうところがある。精神を解放するためには苦しまなければならない、救済に至るにはまだまだ肉体を痛めつけなければならない──そんな言振りに。
「(精神の)苦しみの原因には(肉体の)苦しみの不在がある」。こんなふうに定式化すればよいだろうか。ある苦しみを別の苦しみによって癒そうとする感覚、纏わりつく自責のイメージ。


この問題に関するぼくの関心は──一度この作品から離れて言えば、「努力教」と現代的に言ってしまって構わない。
苦しんでいる人間がいたとき、彼の苦しみそのものではなく、苦しみを回避するために必要だった(ということになっている)努力の不足に注意が集中してしまうということ。苦しむ人間が他人であっても、自分であっても。
2000年代中頃から言われるようになった「自己責任論」という言い方に置き換えてもいい。上述したように、苦しみは苦しみによって解消するほかはなく、さらに付け加えれば、それ以外の手助けは「甘え」であるという発想。

癒やされるために、苦しむ。ブッダを読み返して、人類は昔から何度も何度も少しずつかたちを変えながらも、この図式を反復しているのだなと思った。*1

*1:追記:この文章が、苦行と自己責任論を無理に重ね合わせた粗雑な図式だということは承知している。ボヤンとした印象──連想ゲームだと理解してほしい。本エントリ全体が謎に断言調だなあと公開してから感じたため、注釈。