遊びをつくる、セミラティスが見えてくる クリストファー・アレグザンダーの「自尊心の強い少年」


卒論提出期限まで異様な短さになってしまった今もエディタの文字カウントが少なすぎる数字ばかりを示す今日このごろです。
そんなありさまなので、昨年を振り返るブログとか書きたいんだけど余裕なくてマジ書けないです。


ということで、卒論やってて見つけた面白い一節をちょい長いですが紹介してみます。
以下、建築家のクリストファー・アレグザンダー『都市はツリーではない』より。

CIAMの理論家達が好きな思想の一つにリクレエイションと他のものの分離がある。この考え方は現実にみられる都市の運動場に具現化されている。アスファルト塗装され柵で仕切られた運動場は、<遊び>が我々の心のなかでは独立した概念として存在するという証拠を表すに他ならない。この考え方は遊びそのものの本質とは無関係である。自尊心の強い子どもは運動場では遊ばないものである。遊びそのもの、子どもたちのする遊びの舞台は毎日変わる。屋内で遊ぶときもあるし、仲良しのガソリンスタンド、空家、 川岸、週末で休みの工場現場などで遊ぶときもある。遊びと必要な遊び場は一つのシステムを形成する。このようなシステムが町の他のシステムと切り離されて独立に存在すると考えるのは間違いである。種類の異なったシステムが互いに重なり合い、さらに数多くのシステムとも重なり合う。ユニット、即ち遊び場として看なされる具体的な場所も同様でなければならない。 自然の都市ではどこでも見られることである。 遊びはあらゆる場所でおこなわれる。遊びは大人の生活のすき間を埋めてくれる。

実はぼくは、この一節を中谷礼仁『セヴェラルネス+ ―事物連鎖と都市・建築・人間』で知りました。
孫引きなのですね。『都市はツリーではない』自体も読んでたはずなんだけども、忘れたみたい。

この『セヴェラルネス』についてまとまったことは書けないけど、とにかく超おもしろいです。
上にあげたアレグザンダーの引用がなされている題名そのままの第五章「自尊心の強い少年」の関連する部分ちょっとだけまとめてみます。

そこでは、デザインにおいて避けられない「ツリー化」の問題をすり抜けていく(計画者があらかじめ想定した遊び場ではないところで勝手に遊んでしまう)存在として「自尊心の強い少年」が描き出されたかと思えば、そのあとすぐに、「自尊心の強い少年」も「遊び場」をその都度つくりだしているという意味でひとりの計画者=ツリー化の担い手であることが指摘されます。
しかし、そんな「自尊心の強い少年」たちが時々に行う複数の「遊び場」づくりの動き=ツリー的行動によって生じる「セヴェラルなツリー」を、時間概念を含めて俯瞰でみてたならば都市はツリーが重合した「セミラティス」として解釈することができる、、こんな感じです。やー、おもしろい。


このあとの章に書かれている寓意としてのパタン・ランゲージ論も最高です。
が、それを今度紹介できるように(というか卒論的にはそっちのが本丸なので絶対やりたいよ!)、まず卒論の書かねばならない部分を書ききるよう頑張りたいと思います……。

関連

セヴェラルネス+(プラス)―事物連鎖と都市・建築・人間

セヴェラルネス+(プラス)―事物連鎖と都市・建築・人間

形の合成に関するノート/都市はツリーではない (SD選書)

形の合成に関するノート/都市はツリーではない (SD選書)