「仕事」への憧れ


「仕事」という言葉に憧れがある。

この言葉からは、「作業」みたいな言葉とは異なる、何かしらの価値を新たに生み出すプロフェッショナルの響きを感じる。


その憧れからか、この言葉を使うのをつい躊躇してしまう。

たとえば、自分が抱えているプロジェクトで論文や報告書を書くことは果たして「仕事」たりえているのか。


自分にはどうも「仕事」ができないのではないか、という不安がある。

ぼくはどんなに小さな活動であろうとも、そこになんらかの価値があるならば、それはまさしく「仕事」であろうと思っている。

しかし、自分がそのラインを越えることができない気がして、なかなかこの言葉を使う気になれない。


先月論文を書いていたとき、久々にぼくは「仕事」をしているなあという実感をもつことが少しできた。

自分が言わなければならないことを、ある程度射止めた感じがしたとき、そういう感覚が胸に湧いてきた。

上手く表現するのは難しいが、こういう感じを抱いたときの気持ちよさは、とにかく本当に素晴らしい。

プロジェクトがキツくなってきたとき、こういう感覚は自分を勇気づけるように作用する。


今年ぼくは、自分のやっていることを今までよりも数多く外に出したいと思っている。

「俺は仕事をしているぞ」という感覚を少しでも多く味わって卒業したい。


来年からはふつうの意味で仕事を始めるわけだけど、その一方で今やっていることも来年以降なんらかのかたちで続けていきたいと思っている。

この思いを実現するためには、自分が今やっていることは「仕事」なんだと身体で理解しておかなければならないだろう。

そうでなければ、きっと今やっていることは学生時代のイイ思い出として、来年以降は頭のはしっこのほうに大事にしまわれるだけになってしまう気がするからだ。

思い出は素晴らしいものだが、思い出だけだとむなしくなるので、ものを残したい。

ものがあれば、思い出はもっとよくなるし、思い出に留まらない続きの話もできるようになると思う。