清水真木『友情を疑う』


最近、こんな本を読んだ。わりと面白かったので久々に更新。

友情を疑う―親しさという牢獄 (中公新書)

友情を疑う―親しさという牢獄 (中公新書)

西洋哲学の歴史の中で友情や友人といった概念がどんなふうに使われてきたのかを追っていくという地味な本。
そういうのが知りたければ、そこそこ楽しく読めると思う。

ただ、最後の章でやや唐突に日本論みたいなのが出てくるのがかなり気になる。全体的に友情論そのものっていうかよくある公共性論じゃね?って思うとこがわりとあるんだけど、最後の部分はとりわけその傾向が出ており、議論も足早でそれまでの章との連続も不明瞭だった。

それでも、基本的には手堅い感じで面白かった。なんていうか、中公新書感。w


具体的に中身を見ていくと、キケロモンテーニュ、ルソーの三人の友情論がわりと詳しめに検討されている。

キケロは、公共空間において討議の相手になるような人のことを友人と呼んだ。これはアリストテレスやら古代ギリシア人の考え方をまとめたもの。
仲良しとか親密とかそういうのではないから、だいぶ今の友人というイメージとは違っている。友情を貫いて公共のルールを破るようなやつについては、激しくディスっている。

モンテーニュは、ラ・ボエシーとのアツい友情が『エセー』で知られているように、自分の分身みたいに思えるたったひとりの大事なやつのことを友人だと考えた。
キケロの考えとは違って、公共空間をつくる相手とかでは全然ない。説明できない宿命的な力がふたりを結びつけるのだ~とか言っている。

ルソーは、憐れみを抱きうる相手、お互いにお互いの弱みをさらけ出すことができる相手こそが友人と呼びうる存在だとした。
弱さを共有できない奴は友達じゃないという考え方の極端さにはルソーのアレな人感がよく出ていて面白い。


また、この三人の友情論のほかにも、モラル・センス学派の共感に基づく友情論やカントの友情論、フランス革命期のミシュレの友情論なども紹介されている。

結構色々な人物とその考え方が出てくるので、その意味では、友達ってなにかしらという素朴な問いに答えるパッケージがそれなりに用意されているなと思った。


とはいえ、最初にも少し書いたが、全体の筋書きがあんまりよくない。

公共空間を支えていた友情がヒューマニスティックな友情へと変わり、さらにはベッタリ全体主義な友情観になっていくというのは友情を巡る思索の流れとしてあんまり面白いものとは思えない。というか、本当にそうなのかしら…?

こうした筋書きに基づいて友情がなんたるかを理解するというよりは、紹介された友情論で気になったものをたどって読んでみるのが正しいこの本の使い道かなと思った。