読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

理由を問う方法(1):理由を問うことの必要と負担感


理由の必要

他人と議論をしていると、相手の話していることについてその理由を問いたい場面がよく出てくる。


とはいえ、理由を聞くのには結構な勇気がいる。
それは、「なぜ?なぜ?」と何度も問いかけることが、少なくとも日本語では、威圧的だったり責任を押し付けたりする物言いに通じるところがあるからだと思う。

この前友達と就活の話をしていたら「面接が圧迫だった」と言うのでよく聞いてみたら、そこで言われる圧迫面接なるものは要は「話をするたびに人事の人から『なんで?なんで?』って何回も言われて、なんだか辛い気持ちになってしまった」という事態を指しているということがあった。

つまり、日本語では理由を問われる/問うと、相手との人間関係次第ですぐに「威圧されている」「責任を押しつけられている」という感じが出てきてしまうのである。

そう考えると、理由を聞くのはなかなか心理的にハードルが高い作業だ。理由が知りたいとき、別に相手を攻撃したり威圧したりしたいわけではない。そのことを意識して会話をするのにビクビクしてしまうのは、なんともむずがゆいことである。


では、理由を聞くことをやめればよいのだろうか。
これもあまり望ましい選択肢ではないように感じられる。

理由を聞くことにはイイことがたくさんあるからだ。

たとえば、「相手の主張がどのように正当化されているのか」を理解することができる点があげられる。
その理解が得られれば、相手の主張をより強力にする手伝いをすることも、同じ理由から導ける別の主張を示すことも容易になる。
これらは既に問題意識が共有されているときに、その問題を解く作業を共同で行うために不可欠なことである。

また、相手が主張を行う動機について理解できるということもある。これは先の論点よりもさらに重要だと思う。
なぜなら、動機を知ることは、相手の主張に賛同できなかったとしても、相手がそう主張したい気持ちを理解するということだからだ。相手への共感が働けば、共に問題を解決しようとするところまでいけるかもしれないし、仮にそれが難しくとも、少なくともなるべく相手を慮ろうとする気持ちが芽生えるかもしれない。
目の前に相手がいて、その人と何かしらイイ話をしようとするとき、こうした気持ちを芽生えさせることは何よりも重要なことであると思う。

具体的な話は今度(明日かければいいな)。

*ちうい
ちな、ここでは理由という言葉をかなり広い意味で用いている。
相手の主張の根拠を問いたい場合も、主張を行う動機を問いたい場合も、その他色々な場合もごっちゃにしている(してしまっている側面もあるw)。これには理由がある。
なぜなら、実際の議論の場において、それらの区別を要求することは常に有用だというわけではないからだ(有用な場合も当然だが多い)。さらに言えば、これらを混同することが有用である場合さえあるとも考えている。