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落語「鼠穴」と伊集院光/立川談志/太田光の話。


元々三遊亭楽大という落語家だった伊集院光が、落語を辞めるきっかけの話。
伊集院が少し前に出した本「のはなし」にそれが書かれている。

伊集院光 (ルーフトップ★ギャラクシー)
僕が落語を辞めた大きな理由のひとつに若い頃の(立川)談志師匠の『ひなつば』っていう噺のテープを聴いて、自分の落語とのレベルの差を思い知ってノイローゼになったというのがあるんですよ。でも、談志師匠にラジオのゲストで出ていただいた時にその話をしたら「うまい理由が見つかったじゃねえか」って言われて。その当時は絶対に談志師匠の落語でショックを受けて落語を辞めたんだと思ってたし、そこに嘘はゼロなんだけど、確かに今考えると「それが100%ではないよね」って思うんですよ。そこに至るまでにいっぱい逃げたいことがあって、そこで一番格好いい言い訳を本能的に見つけてたというのは否めないんじゃないかな。

ちなみに俺はこの時のラジオを聴いていた。立川談志はいつも通りに?不愉快そうだった。伊集院はその空気を感じてますます空転して話す。談志はさらに不愉快になる。

「所詮人生、成り行きなんでしょうなあ。だけど成り行きだけじゃどうも面白くないから後で勝手な理屈をつけているような気がします」

この言葉は、最初に貼ったURLで、「鼠穴」の演目が始まる前の枕で最後に談志が言った言葉。
普通にとれば、鼠穴の中で兄が弟に三文しか渡さなかったことを10年後に語る口調が嘘くさくて後付けの理屈だ、ということだろう。
談志は、鼠穴の兄に対して感じたうさん臭さを伊集院からも嗅ぎ取っているのではないか。


「後で理屈をつけることとそのうさん臭さ」について、談志はどう考えているのだろうか。
ここで太田光が登場する。実はこの「鼠穴」という噺は、太田の所属するタイタンのライブで、立川談志が落語をしてくれるというときに太田が悩んで出したリクエストでもあるのだ。


その太田はあちこちで、この噺、そして落語一般の良さとして「人間の業の肯定」を挙げている。
鼠穴を人間の業の肯定の物語とすると、「マジでケチな兄が、かっこつけるために後から理屈つけた。けれど、それもいいじゃないか」ということになるのではないかしら。
談志はこの解釈を肯定したのだろうか。


鼠穴の兄は、ただのケチであり後付けの理屈を使ったのか。それとも、本当にいいやつだったのか。もし後付けの理屈を使っていたとしたら、それは肯定されるべきなのか。
伊集院の「後で理屈をつけること」に対する談志のあの調子を思うと、それがよくわからなくなる。

参考資料
のはなし
笑う超人 立川談志×太田光 [DVD]